こんにちわ!
この歴史探訪日記シリーズも、今回で早6作目に突入する事ができ
これも皆々様の御愛顧の賜物だと感謝申し上げます。
さて、今回の歴史探訪は奈良県高市郡の
『 高取城 』
に行ってまいりました!!
高取城は、近世城郭時代において
「 日本三大山城 」
(大和高取城・備中松山城・美濃岩村城)
の筆頭で、太平の世になり美術的建造物へと変貌していった城郭にあって
中世(戦国乱世)の戦闘目的の山城は
山頂という不便な条件ゆえ次々と廃城になる運命をたどっていきます。
“ 中世城郭 ”とは
天険の要害である山頂に築くことにより防御を固め
“ 近世城郭 ”とは
平地に堀・石垣等の人工建造物により防御を固める形態となっており
太平の世(江戸時代)になり城が戦闘目的から
権威の象徴になってからは
生活に不便な山城は時代遅れとなり平城へと移行していく事になります。
それらを決定づけたのが
元和元年(1615年)に発令された
【 一国一城令 】
によるものが大きく
その中で最大規模の山城を誇った
『 高取城 』
は、城郭史上で最も特異な例とされています。
その高取城は南北朝時代の、元弘年間に
『 越智邦澄(おちくにずみ) 』
により築城されたとされ
戦国時代の天正年間に下剋上により
筒井順慶(つついじゅんけい)家臣
松蔵弥八郎
(まつくらよはちろう)
により、越智氏は滅亡…
天正13年(1585年)に
豊臣秀長が大和国を領有してから(ごんちゃんの歴史探訪日記Part1参照)
歴史の表舞台に登場します!
秀長は、この高取城に配下の重臣
初代城主:脇坂安治(わきさかやすはる)
二代城主:本多利朝(ほんだとしとも)
を入城、大改修させ
これにより本格的な近世城郭へと発展していく事になるのです!!
秀長には、本拠である
≪ 大和郡山城 ≫
があり、高取城は大和豊臣家退避の際
「 最後の“砦” 」
としての意味合いを待っていたとされています。
秀長(大和豊臣家)の家系が絶えると
高取城は、そのまま本多氏の居城となり
その後も改修工事は断続的に行われていたそうです。
その本多氏も断絶すると譜代の
『 植村家政 』
(うえむら いえまさ)
が取り立てられ、幕末まで植村氏14代が城主(藩主)として世襲します。
標高583メ―トルの高取山山頂に築かれた高取城は
明治政府によって取り壊されますが
山頂にある山城という条件が幸いして石垣は完存!!
現在は、国の
“ 特別史跡 ”
として整備されています。
苔むした塁々たる高石垣が、うっそうとした木々に囲まれ
今も当時の栄華の様子を留めている高取城…
前線に出る事はあまりなく
城郭としては地味な部類に入るでしょうが
「芙蓉の花」 に例えられる美しい姿で
村人を見守り続けたこの城は
太平の世にありながら中世の遺稿を遺す特異な山城として
時の流れにひっそりと遺された
『 歴史の忘れ物 』
のように感じてなりませんでした…
もし、高取城を訪れられれば
「 こんな山奥に…!? 」
と、思わず息を呑み
苔むした巨大な石垣に圧倒されながら
山を感じ
木々を感じ
歴史を感じ
そして、先人が築いた
≪ 誇り ≫
を感じ、学び取る事ができるでしょう!!
スポンサードリンク