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「 ごんちゃんの歴史探訪日記 」
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今回の
《 歴史探訪日記Part7 》
は、日本の歴史史上最高の出世を遂げた
「 羽柴(豊臣)秀吉 」公
を取り上げ、秀吉が初の城持ち大名になった北近江(滋賀県長浜市)の
『 長浜城 』
に行ってまいりました!!
元亀(げんき)元年(1570年)~
天正(てんしょう)元年(1573年)の
織田軍による、北近江・小谷城(おだにじょう)攻めに、先鋒を任され
浅井(あざい)氏を滅亡に追い込んだ秀吉の働きは絶大で
(ごんちゃんの歴史探訪日記Part3参照)
主君・信長は浅井氏の旧領である
「 北近江三郡・12万石 」
を秀吉に与え 小谷城主 に任じました。
百姓の身から、草履取りを経て
20余年で半国とはいえ
今や城持ち大名にまで出世し
また朝廷より「筑前守」の官位を賜り
『 羽柴筑前守秀吉 』
(はしば ちくぜんのかみ ひでよし)
と名乗り、織田家筆頭クラスの家臣(重臣)に成長します。
小谷城は、天険の要害ではあるものの
戦における武器の変化・統治の面において不都合が多く
寒冷で雪深き場所にある為、秀吉は信長に城地変更の許可を得ると
琵琶湖の辺りの
“ 今浜 ”
に移城する事を決意します。
今浜の地は湖岸に面しており
湖上輸送
統治など
小谷山山頂の小谷城よりも遥かに便利でした。
秀吉は、主君:信長の長年の恩顧に報いる為
今浜の地名を
信長の 「長」 の字を一字拝領し
「 今浜 」→『 長浜 』
と、改め
天正2年(1574年)に築城を開始
2年後の天正4年(1576年)には
琵琶湖湖畔に完成したとされています。
築城と同時進行で
秀吉は城下町の発展にも力を注ぎ
その才能を遺憾なく発揮。
この経験が後の
大坂城
伏見城
名護屋城
石垣山一夜城
などの城下町建設に引き継がれていく事になります。
現在も長浜の地には
鍛冶町
鉄砲町
呉服町
など、当時の名残をとどめる町名が多々あります。
竣工した 『長浜城』 を本拠地とし
信長の独創的な、当時世界にも例がなかった
【 方面軍制度 】
の、
≪ 中国方面軍総司令官 ≫
に任命されは秀吉は
播州上月城・三木城
因幡鳥取城
備中高松城
などにに出陣して行く事になるのです…
この “長浜時代” に
『 加藤清正 』
『 福島正則 』
『 石田三成 』
など、後の豊臣政権の中枢を担う子飼いの家臣団が育成され
秀吉と配下の
≪ 羽柴軍 ≫
は、地方の大名なみの
優秀な家臣
豊富な武器弾薬
を手中にし、名実ともに
『 織田家最大の軍団 』
になるのでした…
現在ある、長浜城は全くの模擬天守で
本来の長浜城との位置も違い
遺稿としては、わずかな石垣と
“ 太閤井戸 ”
と称される井戸が残る程度で趣に欠けるのは仕方ないでしょう…
昭和58年(1983年)に築造された長浜城模擬天守は
内部が歴史博物館になっており
模擬天守築造当時の費用は 約11億円 だそうで
当時の秀吉ならびに領主の権力・権威は
現在の我々が想像する以上に強大だった事でしょう!!
日本の歴史史上、最高の出世をし最終的には
【 豊臣 】
の関白家を興し、その才覚と一代限りという悲劇的な宿命で
未だに人気がある秀吉公…
下賎の身から城持ち大名に登りつめ
≪ 自分の城 ≫
から琵琶湖を望んだとき、秀吉公は、どのような思いにふけたのか?
それを知りたいと思うのは、僕だけでしょうか…!?
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