今回の 「歴史探訪」 は
日本の歴史史上、避けては通れない

 『 織田信長 』公

をクロ―ズアップし、天下統一の象徴的な城廓である

  『 安土城 』

に行ってまいりました!



  “ 近世城廓 ”とは

 高い石垣
 広い(深い)堀
 堅固な櫓(やぐら)
 聳え立つ天守…

いわゆる皆様がイメージなさる 「城」 をさします。


天守は、大和(奈良県)の多聞城(松永久秀)

壮大な石垣は、南近江(滋賀県南部)の観音寺城(六角道誉)

に始まったといわれ、中世には
「 天険の要害(山頂など) 」
を利用し、それ以前は見る事のなかった

 『 人工建造物(近世城廓) 』

発祥の地は、近畿地方から始まったとされています。



そうした近畿地方独特の先駆的な築城法を集大成したのが、織田信長で

『安土城』

天守竣工により、初めて大規模な近世城廓誕生の時代を迎ます。




  室町幕府15代将軍・足利義昭の追放

  浅井・朝倉両氏の滅亡(ごんちゃんの歴史探訪日記Part3参照)

  伊勢長島・越前の一向一揆壊滅

  武田氏の滅亡…


近畿を天下統一事業の足固めとしたい信長は
天正4年(1576年)
嫡男:信忠に家督と岐阜城を譲り

   ≪ 平安楽土 ≫

の名の元、自らが命名した 「安土」 の地に移ります。



 丹羽長秀を、普請奉行(総責任者(現場監督!?))とし
京都に近く東海・北陸を押さえる要害であった
安土山に、新城築城を命令。


 天正4年(1576年)
正月から、近隣の人員を総動員し、工事を開始。

天正7年(1579年)には、一応の完成とされています。


 天守は7重。
石垣の高さは最高で22mにも及び
1階は縦横の長さが異なり
5階からは八角形で、最上階は金箔が貼られ全て金色となっていたそうです。



  来日中の宣教師:ルイス=フロイスは
その著書である 「日本史」 に

 『 安土城とよばれる建造物の真中には、彼等が「天主(信長はそれまでの呼称である天守を“天主と改名)”」と呼ぶ一種の塔があり、我等(ヨ―ロッパ)の塔よりも、遥かに気品があり壮大な別種の建築である。 この塔(天主)は七層からなり、内部・外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営されている。 』

と記し、内部は中央部が吹抜けにされており
最下層には多宝塔が置かれ
3階には中空に吊り出す形の構造の 「能舞台」 もあったそうです。




 また、安土城の敷地には

  【 總見寺(そうけんじ) 】

という寺院があり、一般には菩提寺と考えられていたそうですが
近年の研究では、そういった目的の寺ではなく
信長自らを

≪ 神 ≫

と称し 「信長」 を祀る為に建立した…とされ
寺の最高所の窓のない一室には
“ 信長の化身 ”である

『 盆山(ぼんざん) 』

と呼ばれる石を安置し、近隣の住民に対し
信長の誕生日には
總見寺への参拝を命じていたそうです。


  信長は自らを 「神」 と名乗る事で
天皇をも従属させようとした…と、近年の研究では考えられているようです。



  しかし、元将軍:足利義昭・一部の公家
特に、朝廷には信長の思想は快よく思われず

 ≪ 危険思想 ≫

とされ、朝廷は寺院に信長を呪う祈祷を命ずるなど
対立が表面化してきます。


 同時期、信長の独創的なこの野望に対し
不安と反発を抱く武将が、信長配下から現れます。


それと同調するように足利義昭・朝廷も

『 彼 』

に働きかけます。


その武将は、どちらかといえば
保守的な考え(室町幕府再興)であったと同時に
主(信長)より領地没収
「彼」 が進めていた、敵対してる波多野氏との約定(条約)を
信長が一方的に無視し、人質となっていた 「彼」 の母親が波多野氏により磔にされ
「彼」 が進めていた外交(長宗我部氏との同盟)を破棄…


  そして、元将軍・朝廷 (一節には徳川家康が真犯人とされています) からのけしかけ等により
天正10年(1582年)6月2日
中国地方へ出陣の為に宿泊していた信長に
丹波亀山城を発した

    明智日向守光秀
(あけち ひゅうがのかみ みつひで)

以下、15000人の兵が本能寺を急襲!!!


 くしくも母の命日であったこの日に
歴史の大転換となるク―デタ―

【 本能寺の変 】

が起こり、天下統一の夢も目前にしてはかなくも散ってしまいます…



 そして、史上名高い

 “ 中国大返し ”

によって戻った、羽柴(後の豊臣)秀吉により

   『 山崎の合戦 』

で、光秀は惨敗します。


その後、明智一族の残党狩りと称し
愚将・凡将(いわゆるバカ殿)として有名(!?)な信長の次男

   『織田信雄』
   (おだ のぶかつ)

により、安土城は放火され
天正10年(1582年)6月14日
信長の夢と共に焼失…




 日本一の名城は、多くの謎を残し
わずか4年という短い生涯を閉じたのでした…




 現在、二の丸跡には
天正11年(1583年)6月2日、秀吉により

  ≪ 信長廟 ≫
(しんちょうびょう=信長の墓)

が造営され、上に安置されているのが

  『 盆山(ぼんざん=信長の化身) 』

ではないか…とされています。



 そして、天正13年(1585年)に
時の天下人の甥である

【 豊臣秀次 】

が、近江八幡城を築城(ごんちゃんの歴史探訪日記Part2参照)。


城下町も八幡に移り安土は衰微の一途をたどる事になります。




  信長の意思と象徴を誇示した天下の名城は
その生涯が至って短く、また謎も多く
これからの発掘・研究により、さらに開明される事を期待宣教せずにはいられません…


 しかし、信長が築いたこの城跡には
明らかに他とは違う雰囲気を持ち
未だに天下を目指す意気込みを感じたような気にさせられました。


 安土城周辺の博物館

  『 信長の館 』

には、安土城天主閣が部分的に再現され
 またJR安土駅前の

≪ 織田信長公の銅像 ≫

を見ていると感慨深くなるのでした…




  近江地方には、城郭・史跡も数多く
彼等が一生懸命に生きた激動の時代を肌で感じ
歴史を体感するのは如何でしょうか!?



 信長も、安土の城も志し半ばで倒れ
お互いに共通点があるように思えるのは僕だけでしょうか?


 激動の戦国乱世に革命を起こし
生き抜いた、織田信長公の49年の生涯は
中世の社会構造を、ことごとく破壊しつくし
信長が最後に破壊したのは

【 信長自身 】

であり、その結果はあまりにもあっけなく幕を閉じ
その軌跡は “羽柴秀吉” により
継承される事になるのです。



人間五十年
下天のうちをくらぶれば
夢・幻の如くなり
  ひとたび生を得て
滅っせぬもののあるべきか…






                    監修:織田 一哉氏


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