今回の歴史探訪日記は地元(?)和泉國の

 『 岸和田城 』

に行ってまいりました!



 岸和田城は、かの有名な

『 悪党:楠木正成 』公

の一族である和田氏が建武元年(1334年)に
ここを本拠とした為、この地を

 「 岸ノ和田 」

と呼ぶようになり、それが

  『 岸和田 』

の地名の始まりになったそうです。



 当時は 「城郭」 ではなく
「砦(とりで)」 程度のモノで
室町~南北朝時代には細川氏の支配下にあり
後に家臣の三好氏に実権を奪われ
阿波~淡路を経て、岸和田という海路を確立します。

三好長慶もまた、岸和田城の重要性を理解していたようです。



  …そして時は流れ、豊臣の世になります。


  天下人:秀吉を
最も恐れさせたのは
徳川・北条・伊達の東国連合軍
であったのは有名ですが、紀州の鉄砲集団である

  ≪ 根来衆・雑賀衆 ≫

も、信長以来の宿敵で
特に石山本願寺との戦さにおいて根来・雑賀衆は本願寺側に合力(味方)
その棟梁(総司令官)である

 『 雑賀 孫一 』
(さいか まごいち)

には、信長でさえ幾度も苦渋を呑まされ
「家康vs秀吉」の

  【小牧・長久手の合戦】

においても家康の動きに同調し
秀吉軍が尾張へ出陣した際に北上し、秀吉軍を悩ませ続けた宿敵であり
それらに対する備えとして
岸和田城は、必要不可欠なものとなります。



  そこで秀吉は、直臣である

 『 中村一氏 』

を、岸和田城主にし、その一氏も
根来・雑賀衆の度重なる来襲を奮戦し、守りぬきます。



 これを受けて
天正13年(1585年)
秀吉は岸和田城に兵を進め紀伊制圧に乗り出します。



先鋒に
 宇喜多 秀家
 小一郎秀長配下の本多 利朝(高取城々主)

殿軍(しんがり)に
 小西行長
を従え、紀州街道に天下人をアピ―ルする一大軍事パレ―ドの如く南下した秀吉は
和泉国の

  千石堀城
  根来出城

など、泉南六諸城を大群にモノをいわせて次々と陥落させ
根来衆の拠点である ≪根来寺≫ を攻略し、後に同寺は全焼…
また、雑賀衆の拠点である 『太田城』 を水攻めにより陥落させます。



 平定後、和泉国は
信頼する弟・小一郎秀長の領地(ごんちゃんの歴史探訪日記Part1参照)となり
中村一氏に代わり甥の

 『 小出 秀政 』

が入封し、秀政は本格的な普請(工事)を行い
文録4年(1595年)に
五重天主を建て、岸和田城の歴史の中で、ここに

   ≪ 近世城郭 ≫

が誕生します。




 豊臣家滅亡後
元和5年(1619年)に松平 康重が入城し、さらに
寛永17年(1640年)に摂津高槻より
時の将軍・徳川家光の信任厚い

  ≪ 岡部宣勝 ≫

が入封。

これは 【南海の竜】 として恐れられた
紀州徳川家の

≪ 徳川頼宣 ≫

が、和歌山城を大拡張し幕府の疑念を招き
密かに危険視されていたので、これに対する備えの為の転封だったそうで
宣勝は、いわゆる

  『 紀州固め 』

で、岸和田城を増築・拡充整備し
岸和田(紀州)街道を発展させていく事になります。



 そして、整備なった 『岸和田城』 は、明治維新まて、岡部氏十三代が世襲します。



 文政10年(1827年)に落雷により天主は焼失しますが

 「 岸和田は場所柄も候 」

と、うたわれ、和歌山・姫路城などのように権威を誇示する為の城でなはく
常に前線の枢要の地に築かれた歴史あるこの城は
昭和29年(1954年)に三層の模擬天主が再建されましたが
実際の天主は五層で、現在のモノよりも約10メ―トルも高かったそうです!!



  現在も和泉・泉州の歴史と誇りを誇示し
天主展望台から望む景色は
遥か南の宿敵と相まみえた頃の先人達が
命をかけて戦った事を考えていると
感慨深くならざるを得なくなるのでした…



 近年では、だんじりが有名になっていますが
大阪城以外にも立派な城があるという事を知って頂ければ幸いです…





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