こんにちは。
新店舗に移転し、何かとバタバタしており
歴史探訪日記を作成できない日々が続きいていましたが
ようやく作成する事ができました(笑)
今回の
『 ごんちゃんの歴史探訪日記Part8 』
は、小早川隆景の 【水軍の将】 にして
毛利元就の信任厚く、豊臣水軍としても数々の手柄を上げ
戦国時代の名将十傑の随一に数えられ、猛将としても名高い
『 浦 宗勝 』公
(うら むねかつ)
の居城である
賀儀城(かぎじょう)
菩提寺である
勝運寺(しょううんじ)
を訪ね、広島県竹原市忠海町(ただのうみちょう)
に行ってまいりました!
浦 宗勝公は
小早川氏の一族、乃美氏が
浦の郷(うらのごう(現在の忠海))
を治めた為に 「浦」氏 を名乗り
小早川家は早くから瀬戸内海の海賊衆と結びつきを強め
その海賊衆を引き入れ水軍として統括したのが
浦 宗勝公で
瀬戸内海を航行する
船の護衛
通行税の徴収
などにより、瀬戸内の覇権を支配する
瀬戸内水軍の総大将でした。
宗勝公が居した
『 賀儀城 』
は、瀬戸内海に張出した
《 海城 》
で、瀬戸内特有のリアス式海岸を利用した
「 山城 」
でありながら
「 海城 」
でもある一種独特の、ある意味 『日本独特』 の城郭で
石垣を多用せず、土塁(盛り土により城を防御する構造)により
防御を固める形式を採用しており
近世にありながら中世時代の遺稿を色濃く残す
大変興味深い城です!!
信長と、石山本願寺を巡り争った
『 木津川の合戦(石山の役) 』
日本合戦史上有数の逆転劇で “西の桶狭間” とも称される
【 厳島の合戦 】
では、水軍の動向が勝敗を決するとみた、毛利元就は
能島水軍
来島水軍
の援助のため
「 瀬戸内最大の海上武装集団 」
として恐れられていた村上家棟梁
『 村上武吉 』
との交渉を、浦 宗勝公に一任したそうで
その村上氏が、海賊衆を組織化し
≪ 村上水軍 ≫
として大活躍したのは、ご存知の通りで
宗勝公に対する、毛利元就の信任の厚さを物語り
その宗勝を大将とする 「小早川水軍」 も、ここ賀儀城から出撃したとされています。
後に、秀吉が天下をうかがうと
“秀吉水軍の将” として
『 四国征伐 』
『 九州征伐 』
朝鮮出兵における
『 文録の役 』
にと転戦し
【 鬼将軍 】
としての名声を欲しいままにしました。
しかし 「文録の役」 の折り
陣中にて病に倒れ静養するも快復せず
文録元年(1592年)に、この世を去りました…
賀儀城の近くには
賀儀城主:浦 宗勝公 が菩提寺として建立した
『 勝運寺 』
があり、城郭を思わせる累々とした石垣で固められた寺の最高所に
遺髪と共に葬られ
小早川隆景公から贈られた
『 駕籠(かご) 』と『 弾薬箱 』
が、 寺宝 として現在も展示されています!!
四方を海に囲まれた日本…
豊後の大友氏
尾張の織田氏
淡路の脇坂氏
など、海賊衆を水軍として組織した大名も多く
九鬼氏や、久留島氏のように海賊から大名になった者もいた時代の
【 海 】
の先駆者として、宗勝公は歴史に留められるべきであり
その宗勝公は、水軍の将らしく
瀬戸内海を一望できる高台から今も
航行する船を見守り続けているのです…
参考文献:玉守 督叔氏
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