かねてから企画しておりました

 『 歴史探訪日記 Part2 ~南近江編~ 』

で、

 「 悲劇の関白・豊臣秀次 」公

を訪ね、居城のある滋賀県近江八幡市
八幡山城に行ってまいりました!




 豊臣孫七郎秀次は
太閤秀吉の姉 「ともの方」 の長男として
永禄11年(1568年)に生まれ
天正10年(1582年)に名門・三好氏の養子となり
後に実子のない秀吉の後継者として
羽柴家(後の豊臣家)の養子となり
天正13年(1585年)に、若干18歳にして近江地方47万石の領主となり(後に尾張・北伊勢100万石)
八幡山山頂に、八幡山城を築城します。



頂上部に本丸を設け

 二の丸
 西の丸
 北の丸
 出丸

を配置したその規模は単なる山城ではなく
山そのものを石垣で固めた

 『 要塞 』

の規模だったそうです!




城の周囲には

   【八幡堀】
  (はちまんぼり)

を築き、琵琶湖を往来する船を立ち寄らせ
その結果、城下町はおおいに潤い
それが 「八幡(近江)商人発祥」 へと繋がるのです…




 しかし天正18年(1590年)に
尾張清洲へ転封され近江八幡の地を去ります…
翌、天正19年(1591年)12月28日に秀吉から豊臣政権の正式後継者として
関白就任と同時に京都の

   ≪ 聚楽弟 ≫
(じゅらくてい=政治の為の城郭)

を、譲り受けます。




 しかし、その2年後の
文録2年(1593年)8月3日に秀吉側室の “淀殿” に
子供(後の秀頼)ができた為(ごんちゃんの歴史探訪日記Part3参照)
その後継者を巡り

秀頼を擁立したい
  石田三成

豊臣政権の弱体化を推進したい
  徳川家康

らの企てにより謀反の罪をきせられ
文録4年(1595年)7月8日に関白職を剥奪され、高野山へ追放…
同年7月15日、秀吉より切腹を命ぜられ

  高野山:金剛峯時 “柳の間”

にて即日自害…

享年わずか28歳の波乱に富んだ生涯を閉じたのでした…




もし、秀次公が存命なら豊臣政権のその後も安泰で
徳川の陰謀も阻止でき、歴史そのものも
或いは変わっていた事でしょう…




 秀次公は現在もなお

  『 殺生関白 』

と伝えられ、辻切り等の残酷な言い伝えが残っていますが
それは、秀吉・三成らを始めとした

 【 関白(秀次)謀反の企てを“正当化” 】

る為に、後に付け加えられたもので
実在の秀次は当時、傑出した文化人であったそうです!!





 現在も続く近江八幡の街並みは
秀次が、築城当時に整備したもので、当時としては画期的であり
現在もなお、ほぼ原型を留めており
秀次自害と同時に八幡山城が廃城とされてもなお
町人たちは秀次を慕い住み続け
謀反の疑いを着せられた際には、釈免を嘆願し
秀次自害の報を聞いた人々は喪にふしたそうで
そうした八幡商人が秀次公の実像を示していると思われます。



そして
秀次
秀勝(秀次の実弟で、朝鮮出兵中に、陣中にて病死)
の菩提を弔う為に生母 『ともの方』 が出家し、後陽成天皇から

『 瑞龍寺 』

の寺号を賜り
文録5年(1596年)に京都:村雲の地に建立し
昭和36年(1961年)に、秀次ゆかりの八幡山城跡に移築されたのが

【 村雲瑞龍寺門跡 】

です。





  本丸跡から望む琵琶湖は
まさに、関白太政大臣が見るような美しい景色で
傍らにある八幡公園の

  ≪ 豊臣秀次公の銅像 ≫

は、殺生関白の汚名を着せられ非業の死をとげた
彼の生涯とは対象的に威風堂々とし、その表情はまさに

『 天下人 』

でした!!!




 現在も

 「 歴史の街 」

として、観光客が途絶えない近江八幡…


様々な施設も点在し
秀次公が礎となり心血を注ぎ築いた
この街の悠久の時の流れを肌で感じながら
旅をしてみるのもいかがでしょうか!?



  歴史の工作により

『 殺生関白 』

と、呼ばれた彼は何も語る事なく逝きましたが
八幡の人々の秀次公に対する想いを目の当たりにすると
彼がどういう人物だったのかをご理解頂ける事でしょう…





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