平成12年(2000年)より始まりました
『 ごんちゃんの歴史探訪日記シリーズ 』
も、今回で遂に10回目に突入致しました!!!
こうして節目を迎えれましたのも、お客様のご愛顧・ご支持の賜物であり
感謝の気持ちで一杯であります。
これからも細々と末永く続けていきたく思っておりますので
引き続きのご支援を賜りますよう宜しくお願い申し上げます!!
さて、記念すべき第10回目の歴史探訪は
僕が最も尊敬する戦国武将である
≪ 羽柴小一郎秀長 ≫公
の本拠地である
奈良県大和郡山市
“ 大和郡山城 ”
初の城主となった
兵庫県朝来市和田山町
“ 但馬竹田城 ”
初めての築城となった
和歌山県和歌山市
“ 紀伊和歌山城 ”
を訪ね歩き、秀長公の軌跡を訪ねてまいりました!
永禄4年(1561年)、兄・秀吉は尾張を統一したばかりの
織田信長に仕えるようになりますが
下賎の出の為、彼の家臣(家来)になろうとする者は誰一人としていませんでした。
そこで目を付けたのが、百姓に勤しんでいた弟の“ 小竹(こちく) ”でした。
母の助言もあり家臣になった小竹でしたが、兄の機転・実行力により
『 木下小一郎 』
と名乗るようになり
更に地位が上がるにつれ
『 羽柴小一郎秀長 』
(はしばこちいろうひでなが)
と名乗ります。
織田信長は身分にとらわれず
能力のある者はどんどん登用し
中世の常識であった
領主と地域豪族の結び付き
から、金で武士を雇う専業武士団を形成します。
これにより、繁農期に兵を出せなかった旧来の常識を打ち破ります。
また、同時に強大な敵と戦うため
“天下布武”(武力により天下を治める)
の名の元
当時世界にも類がなかった
【 方面軍制度 】
を採用しました。
すなわち
・北陸方面軍:柴田勝家(対上杉謙信)
・畿内方面軍:明智光秀(畿内治安維持・他方面軍援軍)
・中国方面軍:羽柴秀吉(対毛利輝元)
・四国方面軍:織田信孝/丹羽長秀(対長宗我部元親)
・東国方面軍:滝川一益(対北条氏政)
・摂津方面軍:荒木村重(対一向衆・三好残党の掃討)
・本願寺包囲軍:佐久間信盛(対石山本願寺)
・東海方面軍:徳川家康(対武田勝頼)
の8軍団に分け、多数の強敵対織田家の構図になっていました。
兄・秀吉が毛利家と戦う中国方面軍司令官になったことで羽柴家は
兄・秀吉が播磨:姫路城を本拠地とし山陽道を攻め
弟・小一郎秀長が但馬:竹田城を本拠地とし山陰道を攻めていました。
その後
≪ 本能寺の変 ≫
が起こり事態は一変!!
毛利家と早急に講和の後
史上名高い 『中国大返し』 で畿内に戻った羽柴軍は
山崎の合戦で、明智光秀を破り、ついで賤ヶ岳の合戦で柴田勝家をも破ります。
小牧長久手の合戦で徳川家康と講和の後
織田家を排除し
天下統一へ一気に駆け上がります!
紀州(根来衆・雑賀衆)征伐
四国(長宗我部元親)征伐
北陸(佐々成政)征伐
九州(島津義久)征伐
更に最大の脅威であった 徳川家康 を傘下に治めると
関東の覇者:北条氏直を攻め、その勢いで奥州(東北地方=伊達政宗)も平定し
朝廷より関白任官、そして
『 豊臣 』
の氏姓を賜り、ここに豊臣政権が誕生し
小一郎秀長も
≪ 豊臣秀長 ≫
を名乗ります!!
四国・九州征伐の総大将として
抜群の軍巧を立てた秀長公は
大和郡山城を本拠地とし
和泉・紀伊を併せた約120万石の大大名になり
“ 従二位大納言 ” (通称:大和大納言)
に任官されます。
そして、紀伊の 若山 に新たに築城し
和歌山城と名付け
大和郡山城
大和高取城
紀伊和歌山城
を支配下におきます。
当時、大和の国は寺社勢力の利権が入り乱れ
治めにくい土地にありながら
『箱元』 と呼ばれる独特の地方行政を敷き、更に
≪ 赤膚焼(あかはだやき) ≫
と呼ばれる陶器場を開窯し、小堀遠州にも好まれ
“遠州七窯”に数えられるまでになります。
しかし、先祖伝来の家臣を持たない豊臣家は常に不安定で
古参の家臣と新参の家臣との衝突が絶えませんでした。
例えるならば、小さな町工場であった豊臣家が大企業に成長したとします。
当然、社員の採用も増えるでしょう。
すると、古くから働く番頭(職人)と
新しく入社したエリートの学卒組とが対立するのと同じで
秀吉もこのことで頭を痛めていたそうですが
その調整を一手に担ったのが秀長でした。
また、戦場では縦横無尽に闘う反面
平時は分をわきまえた彼の姿勢は
多くの大名・武将からも慕われ
実質共に豊臣政権の中心人物でありました。
かつて、島津との戦いに苦しんだ大友宗麟は秀吉に援助を乞い
その時、秀長は宗麟の手を取り
『 何事もこのようであるから心安くなされよ。 内々のことは宗易(千利休)に、おおやけのことはこの小一郎に申されよ 』
と言い、これを聞いた宗麟は
「 この御仁(ごじん=お人)こそ無二の方と存じる 」
…と感激したそうで
秀長公の豊臣政権に於ける地位の重さと自信が
この逸話だけでも感じ取ることができ
恐らく生存中には我々が想像する以上に
著名な存在だったに違いありません!
秀吉の家臣としてではなく
直接信長の家臣になることも可能でしたが
兄・秀吉の補佐役として決して矢面には立たず
豊臣家を、そして豊臣政権を支え続け
更に、戦場に於いても大小百回以上戦さを経験しましたが
文字通り百戦無敗を誇り
四国を統一し、その武勇を誇る土佐兵も
戸次川の合戦で
仙石久秀・長宗我部元親・大友宗麟の連合軍を破り
勇猛第一と恐れられた薩摩隼人も
小一郎秀長が来ると、手も足も出なかったそうです。
しかし、忍び寄る病魔には勝てず
天正19年(1591年)1月22日に
居城:郡山城にて51歳で病没。
その後の豊臣政権と秀吉には暗い出来事しか起きず
偉大な補佐役を失った豊臣政権と秀吉は
迷走を繰り返し滅び去ることになるのです…
話は少し戻り、天正9年(1581年)
信長は、毛利との戦さが膠着状態であった秀吉を安土に呼び寄せます。
その意図は
毛利家・織田家(羽柴家)のいずれに着くか態度を決め兼ねていた
備前の大名: 宇喜多直家 の態度を見極める為で
秀吉は自軍の兵の殆どを安土に同行させました。
その間、留守役を命じられたのが小一郎秀長でした。
毛利5万の兵の前に、わずか800人ほどの守備隊で姫路城を守ることになりましたが
それを聞いた秀吉の母“なか”は
自分の弟を見殺しにするのか!…と激怒!!
それを伝え聞いた小一郎秀長は
母“なか”に手紙を書きました。
実績・実力・権力ともに兄・秀吉に次ぐ存在でありながら
自らを後継者ではなく
「補佐役」
と位置付け、次期ナンバー1を目指すことも
功名を欲することもなく生き続けます。
天才軍師は数いれど
良き補佐役に恵まれた例は少なく
秀吉と豊臣政権は
日本史上最も有能な補佐役に恵まれ
その存在は長い日本の歴史でも稀にみる存在でした。
現在、大和郡山城の傍らにある
“ 本家菊屋 ”
は、小一郎秀長がかつて竹田城主時代のお抱えの店で
大和郡山城主になった時に一緒に連れて来たそうで
名物 『 城之口餅 』
は、大和郡山城で行われた茶会で食べた秀吉も
その味を絶賛したそうです!
最後に
小一郎秀長が母に宛てた手紙を紹介して
終りたいと思います。
長々とお付き合い、本当に有難うございました!!
母上、決して兄者を責めてはなりませぬ。
姫路城の守備を致せとは
我の他に申せるものではありませぬ。
死を覚悟致せと他人に申さば
兄・秀吉は
冷たき御仁と人に言われ
調略致せし播磨の諸将が離るる恐れ是あり
小一郎秀長は
羽柴筑前守秀吉の弟なり
生涯秀吉の為に
生き通す決心を致し
命など惜しむ事なく
兄・秀吉の御為に…
>
『 ごんちゃんの歴史探訪日記シリーズ 』
も、今回で遂に10回目に突入致しました!!!
こうして節目を迎えれましたのも、お客様のご愛顧・ご支持の賜物であり
感謝の気持ちで一杯であります。
これからも細々と末永く続けていきたく思っておりますので
引き続きのご支援を賜りますよう宜しくお願い申し上げます!!
さて、記念すべき第10回目の歴史探訪は
僕が最も尊敬する戦国武将である
≪ 羽柴小一郎秀長 ≫公
の本拠地である
奈良県大和郡山市
“ 大和郡山城 ”
初の城主となった
兵庫県朝来市和田山町
“ 但馬竹田城 ”
初めての築城となった
和歌山県和歌山市
“ 紀伊和歌山城 ”
を訪ね歩き、秀長公の軌跡を訪ねてまいりました!
永禄4年(1561年)、兄・秀吉は尾張を統一したばかりの
織田信長に仕えるようになりますが
下賎の出の為、彼の家臣(家来)になろうとする者は誰一人としていませんでした。
そこで目を付けたのが、百姓に勤しんでいた弟の“ 小竹(こちく) ”でした。
母の助言もあり家臣になった小竹でしたが、兄の機転・実行力により
『 木下小一郎 』
と名乗るようになり
更に地位が上がるにつれ
『 羽柴小一郎秀長 』
(はしばこちいろうひでなが)
と名乗ります。
織田信長は身分にとらわれず
能力のある者はどんどん登用し
中世の常識であった
領主と地域豪族の結び付き
から、金で武士を雇う専業武士団を形成します。
これにより、繁農期に兵を出せなかった旧来の常識を打ち破ります。
また、同時に強大な敵と戦うため
“天下布武”(武力により天下を治める)
の名の元
当時世界にも類がなかった
【 方面軍制度 】
を採用しました。
すなわち
・北陸方面軍:柴田勝家(対上杉謙信)
・畿内方面軍:明智光秀(畿内治安維持・他方面軍援軍)
・中国方面軍:羽柴秀吉(対毛利輝元)
・四国方面軍:織田信孝/丹羽長秀(対長宗我部元親)
・東国方面軍:滝川一益(対北条氏政)
・摂津方面軍:荒木村重(対一向衆・三好残党の掃討)
・本願寺包囲軍:佐久間信盛(対石山本願寺)
・東海方面軍:徳川家康(対武田勝頼)
の8軍団に分け、多数の強敵対織田家の構図になっていました。
兄・秀吉が毛利家と戦う中国方面軍司令官になったことで羽柴家は
兄・秀吉が播磨:姫路城を本拠地とし山陽道を攻め
弟・小一郎秀長が但馬:竹田城を本拠地とし山陰道を攻めていました。
その後
≪ 本能寺の変 ≫
が起こり事態は一変!!
毛利家と早急に講和の後
史上名高い 『中国大返し』 で畿内に戻った羽柴軍は
山崎の合戦で、明智光秀を破り、ついで賤ヶ岳の合戦で柴田勝家をも破ります。
小牧長久手の合戦で徳川家康と講和の後
織田家を排除し
天下統一へ一気に駆け上がります!
紀州(根来衆・雑賀衆)征伐
四国(長宗我部元親)征伐
北陸(佐々成政)征伐
九州(島津義久)征伐
更に最大の脅威であった 徳川家康 を傘下に治めると
関東の覇者:北条氏直を攻め、その勢いで奥州(東北地方=伊達政宗)も平定し
朝廷より関白任官、そして
『 豊臣 』
の氏姓を賜り、ここに豊臣政権が誕生し
小一郎秀長も
≪ 豊臣秀長 ≫
を名乗ります!!
四国・九州征伐の総大将として
抜群の軍巧を立てた秀長公は
大和郡山城を本拠地とし
和泉・紀伊を併せた約120万石の大大名になり
“ 従二位大納言 ” (通称:大和大納言)
に任官されます。
そして、紀伊の 若山 に新たに築城し
和歌山城と名付け
大和郡山城
大和高取城
紀伊和歌山城
を支配下におきます。
当時、大和の国は寺社勢力の利権が入り乱れ
治めにくい土地にありながら
『箱元』 と呼ばれる独特の地方行政を敷き、更に
≪ 赤膚焼(あかはだやき) ≫
と呼ばれる陶器場を開窯し、小堀遠州にも好まれ
“遠州七窯”に数えられるまでになります。
しかし、先祖伝来の家臣を持たない豊臣家は常に不安定で
古参の家臣と新参の家臣との衝突が絶えませんでした。
例えるならば、小さな町工場であった豊臣家が大企業に成長したとします。
当然、社員の採用も増えるでしょう。
すると、古くから働く番頭(職人)と
新しく入社したエリートの学卒組とが対立するのと同じで
秀吉もこのことで頭を痛めていたそうですが
その調整を一手に担ったのが秀長でした。
また、戦場では縦横無尽に闘う反面
平時は分をわきまえた彼の姿勢は
多くの大名・武将からも慕われ
実質共に豊臣政権の中心人物でありました。
かつて、島津との戦いに苦しんだ大友宗麟は秀吉に援助を乞い
その時、秀長は宗麟の手を取り
『 何事もこのようであるから心安くなされよ。 内々のことは宗易(千利休)に、おおやけのことはこの小一郎に申されよ 』
と言い、これを聞いた宗麟は
「 この御仁(ごじん=お人)こそ無二の方と存じる 」
…と感激したそうで
秀長公の豊臣政権に於ける地位の重さと自信が
この逸話だけでも感じ取ることができ
恐らく生存中には我々が想像する以上に
著名な存在だったに違いありません!
秀吉の家臣としてではなく
直接信長の家臣になることも可能でしたが
兄・秀吉の補佐役として決して矢面には立たず
豊臣家を、そして豊臣政権を支え続け
更に、戦場に於いても大小百回以上戦さを経験しましたが
文字通り百戦無敗を誇り
四国を統一し、その武勇を誇る土佐兵も
戸次川の合戦で
仙石久秀・長宗我部元親・大友宗麟の連合軍を破り
勇猛第一と恐れられた薩摩隼人も
小一郎秀長が来ると、手も足も出なかったそうです。
しかし、忍び寄る病魔には勝てず
天正19年(1591年)1月22日に
居城:郡山城にて51歳で病没。
その後の豊臣政権と秀吉には暗い出来事しか起きず
偉大な補佐役を失った豊臣政権と秀吉は
迷走を繰り返し滅び去ることになるのです…
話は少し戻り、天正9年(1581年)
信長は、毛利との戦さが膠着状態であった秀吉を安土に呼び寄せます。
その意図は
毛利家・織田家(羽柴家)のいずれに着くか態度を決め兼ねていた
備前の大名: 宇喜多直家 の態度を見極める為で
秀吉は自軍の兵の殆どを安土に同行させました。
その間、留守役を命じられたのが小一郎秀長でした。
毛利5万の兵の前に、わずか800人ほどの守備隊で姫路城を守ることになりましたが
それを聞いた秀吉の母“なか”は
自分の弟を見殺しにするのか!…と激怒!!
それを伝え聞いた小一郎秀長は
母“なか”に手紙を書きました。
実績・実力・権力ともに兄・秀吉に次ぐ存在でありながら
自らを後継者ではなく
「補佐役」
と位置付け、次期ナンバー1を目指すことも
功名を欲することもなく生き続けます。
天才軍師は数いれど
良き補佐役に恵まれた例は少なく
秀吉と豊臣政権は
日本史上最も有能な補佐役に恵まれ
その存在は長い日本の歴史でも稀にみる存在でした。
現在、大和郡山城の傍らにある
“ 本家菊屋 ”
は、小一郎秀長がかつて竹田城主時代のお抱えの店で
大和郡山城主になった時に一緒に連れて来たそうで
名物 『 城之口餅 』
は、大和郡山城で行われた茶会で食べた秀吉も
その味を絶賛したそうです!
最後に
小一郎秀長が母に宛てた手紙を紹介して
終りたいと思います。
長々とお付き合い、本当に有難うございました!!
母上、決して兄者を責めてはなりませぬ。
姫路城の守備を致せとは
我の他に申せるものではありませぬ。
死を覚悟致せと他人に申さば
兄・秀吉は
冷たき御仁と人に言われ
調略致せし播磨の諸将が離るる恐れ是あり
小一郎秀長は
羽柴筑前守秀吉の弟なり
生涯秀吉の為に
生き通す決心を致し
命など惜しむ事なく
兄・秀吉の御為に…
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