こんにちは。
永らくご無沙汰しておりました

  『 歴史探訪日記シリ―ズ 』

も、お陰様をもちまして今回で
9回目を迎える事となりました。


 これもお客様のご理解と、ご支持の賜物だと感謝申し上げます。




 今回の歴史探訪日記は

≪ 誉れ高き“ 赤備え(あかぞなえ) ”の城 ≫

北近江の彦根城に行ってまいりました。




彦根城はご存知
『 徳川四天王(榊原康政・酒井忠次・本多忠勝) 』の一翼を担った

  『 井伊直政 』公
  (いい なおまさ)

が、慶長5年(1600年)に
関ヶ原の戦いの論功行賞により与えられた地に築かれた居城で
親藩大名の筆頭であり幕末までの

 ≪ 井伊家十四代 ≫

の英傑を輩出した名城で
現存する白亜の天守と櫓(やぐら)は威風堂々とし
城のまとまった美しさを伝える数少ない城です。



 関ヶ原の合戦後
天下の覇権は一気に徳川に傾きましたが、家康の心残りは
関白:秀吉の一粒種である

  【 豊臣秀頼 】公

が、未だに徳川になびかず威光を保っている事でした。



 家康は自分が死亡した時、諸大名たちは

 関白:豊臣 秀頼(秀頼は関白就任間近)

 将軍:徳川 秀忠

のどちらに従うだろうか… と不安でした。



 徳川幕藩体制に不満を持ち、豊臣家に心を寄せる大名も少なくなく

  『 関白公儀 』と『 将軍公儀 』

を精算させる為に、関白家滅亡を決意します。




  そこで家康は信頼できる 「井伊直政」 に彦根の地を与え
対豊臣の第一線の前線基地としての整備を急務とし
大津・小谷・安土・長浜・佐和山 などの近隣の城郭より
石垣や櫓・門を移築、築城したと云われています。



 そのうち思惑通り、豊臣方は
家康の無理難題を押し付ける挑発に乗る形で

 『 大坂の陣 』

が勃発!



井伊家からは、井伊直孝が出陣し、数々の戦功を立て
その論功により、一躍35万石の大大名となりました。





  そもそも井伊家とは…

   ~寛弘7年(1010年)元旦
 遠江国・井伊谷(いいのや)八幡宮の神主が水を汲もうと井戸に来ると
井戸の中に産まれたばかりの赤子を見つけた。

神主は、井戸の傍らに橘の木が一本あったので
それにちなんで産着に橘の紋をつけて着せ大切に育て、その赤子も健やかに成長した。


 早くから聡明さが目立ち、七歳になる頃には

  “ ただならぬ子。まるで神の子じゃ ”

と知れ渡った。


 その噂は近隣の支配者

   藤原備中守共資
(ふじわらびっちゅうのかみともすけ)

の耳にも届いた。


共資には跡継ぎの男子がなかったので神主に懇願して、その子をもらい受けた。

  『 自分は井戸の中から拾われた 』

と聞かされ、その井戸の傍らに橘の木があったため
神主が産着に橘の紋をつけた事にちなみ
衣の紋を 【橘】 と定め、井伊谷の地名から井伊氏を名乗るようになった。



 …と、井伊家には伝わっているそうです。





 天正3(1575)年
井伊直政公が15歳の時、家康より
遠州(静岡県の一部)二千石を授かり
16歳の初陣で大功をたて一万三千石になり
30歳で上野国・箕輪城々主となります。

のちに、関ヶ原の合戦の大功により石田三成の居城

  ≪ 佐和山城(彦根市) ≫

の城主になりますが、関ヶ原の合戦の傷が元で
直政は佐和山城主として死去しました…



 二代城主:井伊直勝が
慶長8(1603)年、彦根の地に新城築城を始めますが
病気がちな兄:直勝に代わり
弟:直孝が家督を譲り受けます。



 英傑の風を示す直孝の力量は捨て置けないもので、譜代大名の代表となり
三代将軍・家光の政(まつりごと=政治)に
譜代の意見を代表する人物に成長します。



 井伊家が、譜代筆頭として幕政に発言権を持つ下地は
直孝が築き、この地位は後世

  ≪ 大老 ≫

と呼ばれるものであり、幕末の

  『 井伊直弼(なおすけ) 』

を登場させることに繋がるのです。




 井伊家家祖:井伊直政公は
赤装束をまとい、武勇にも知謀にも優れ

【 徳川四天王 】

の一人として、常に徳川軍の先鋒(最前線)を務めました。


直政公自身は、赤装束の上に更に黒装束を着用し
潮時を見て脱ぎ捨てて戦うその姿は

 ≪ 井伊の赤備(あかぞなえ) ≫

との勇名を轟かせるほどで、まさに赤鬼のごとく大活躍したそうです。



 関ヶ原の合戦後に捕われた石田三成と面会した直政公は
三成に対し戦前と同様の礼を尽くしたので
皆が称賛する、儀を重んじる一面も持ち合わせていたそうです。




  琵琶湖湖畔に築かれた彦根城は
一度の国替えもなく、井伊氏一四代が在城し明治を迎えます。

新政府の廃城令により各地の城が姿を消していったなかで
明治11(1878)年の廃城撤去の際

  『 明治天皇の御巡幸 』

に遭い、天皇陛下はその消失を惜しまれ
保存するようにとの大命を下されました。



こうして現状保存の恩命を受け
昭和27(1952)年3月29日、彦根城は

   ≪ 国宝 ≫

に指定されました。




 天守閣は周囲の緑と調和し、特に桜の季節には美しい姿を見せてくれます。
月明かりに浮かぶ城の美しさも別格といわれ
今も ≪月明・彦根の古城≫ として

 “ 琵琶湖八景 ”

のひとつになっています。



 現存する12の天守閣のひとつで
規模こそ大きくありませんが
武家屋敷の残る町は城下町の趣きがあり
観光には最適の場所の一つと言えるでしょう!!


今年(平成19年)、彦根城は 『築城400年』 を迎え
井伊家の誇りと日本の歴史をこれからも後世に伝え続けてくれることでしょう!!




          監修:井伊 良介氏





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