この度、
【ごんちゃんの歴史探訪日記】
を作成するにあたり僕が最も尊敬する戦国武将
『 従二位大納言(じゅにい・だいなごん):豊臣秀長 』公
の軌跡を訪ね
大和郡山城
長谷寺
洞泉寺
を、訪ね歩きました!!
秀長公とは
ご存知、下剋上の乱世を、機転と実行力で天下人にのし上がる
「 豊臣秀吉公 」の弟であり
最大の理解者でもあり
戦国乱世では
織田信長(弟:信行を暗殺)
徳川家康(長男:信康を切腹させ、次男:秀康を毒殺)
斉藤道三(嫡男:義竜に討ちとられる)
豊臣秀吉(関白:豊臣秀次に切腹を命ずる(ごんちゃんの歴史探訪日記Part2参照))
武田信玄(実父:信虎を追放・長男:義信を自刃させる)
等のように、親子・兄弟ですら憎しみ、 殺しあう戦国乱世において
常に影となり補佐役に徹し秀吉を天下人に押し上げた功労者で、まさに
『 黄金兄弟 』
と呼ぶにふさわしい存在です。
しかし、そのきらびやかな存命中の権力・業跡を考えると
一領地の領主でしかすぎない
「 武田信玄 」
「 上杉謙信 」
「 伊達政宗 」
「 毛利元就 」
「 前田利家 」
等の方が有名なのは何故なのか…
僕には不思議で、かつ残念でなりません。
天正13年(1585年)に、秀長公が築いた大和郡山の城は天下人
(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)
に、次ぐ領地(大和・和泉・紀伊を併せた約120万石)
でありながら、その巨封を治めた大大名としての城規模はとても質素で
古くから公家衆・寺社仏閣の利権が入り乱れ決して治めやすい土地ではないのにも関わらず
内乱を一度も起こさせず
【 箱元 】
と呼ばれる独特の地方自治を行い城下の商工業を育成し
今日の大和郡山の基礎を築き上げ
また、戦場では縦横無尽の活躍をしながら
平時は分をわきまえた行動で多くの武将からも慕われ
そういった逸話が彼の人柄をしのばせています。
城の傍らには
『 大納言塚 』
と呼ばれる、秀長公の墓所があり
豊臣家滅亡後は一時荒廃しましたが
安永6年(1777年)に
菩提寺である、春岳院(しゅんがくいん)住職・栄隆(えいりゅう)や郡山の有志の努力により再興され
土地の人は現在も
『 大納言さん 』
と呼んで慕い、また誇りにしているそうです…
天主台跡の
野面(のづら)積みの石垣には 石仏も使用され、興味深い造りになっているのは
天下人:秀吉に強敵(徳川・北条・伊達、雑賀衆等)
がいる東方・南方の守りを任され築城を急ぐあまりに石仏を使用したとも
石仏を石垣に取り入れる事によって仏の加護を念じたとも伝えられています。
また、現在ある各地の城郭は江戸時代以降に築城・整備されたものが殆どであり
大和郡山城は織豊期(秀長が生きた時代)に築城され、かつ現存する貴重な城郭跡であり
歴史的にも大変貴重な城郭跡としても認知されております。
現在は城跡公園として整備され春には桜の名所として
市民の憩いの場所として開放されています!!
長谷寺には
「 秀長公の塔 」 といわれるものがあり行ってまいりました!
長谷寺に
『 “大和大納言:豊臣秀長”之塔 』
があるのは
天正18年(1590年)に本堂を寄進した事に由来して
天正19年(1591年)1月22日に
居城:郡山城にて51歳で病没した秀長公を供養する為に建てられたと云う事なのですが
お寺の隅みにポツンとあり
彼の権力・業績を考えますと、あまりにも淋しいモノでした…
また、大和郡山城の東南部には
秀長公が建立した
【 洞泉寺 】
があり、かつては城の
沓脱石(くつぬぎいし=踏み台)にされていた石が
『 我れを祀れ 』
と、秀長公の夢に出た事から祀られたと伝えられている
≪ 垢柧(くこ)地蔵尊 ≫
があり、現在も庶民の信仰を集めているそうです。
秀長公は
『 寛仁大度(かんじんだいど=おおらかな人) 』
で、秀吉の欠点を補い
また家臣の意見にも耳を傾け
家臣以外にも慕う者が多く、葬儀には20万もの参列があったそうです。
『 兄者を助け天下に尽くしたい 』
との信念を持ち続け
家臣からは 「ケチ」 と囁かれながらも
兄:秀吉の為に莫大な金銀を残し
また、秀吉の朝鮮出兵にあたり
『 いたずらに外国と争い、人馬を費やすのは愚かな事で何も得ない。平和に交易を行う事が富国の一番の道である 』
と説き、豊臣政権の実質的な統括者だった秀長を失った秀吉は権力増大に固執し
・千利休
・関白:豊臣秀次
を次々と切腹に追いやり
秀長の反対を押切り朝鮮出兵・大陸侵攻に膨大な財力を消費し
「 “豊臣政権”の弱体化 」
を推進してしまいます。
来日中の宣教師 『ルイス=フロイス』 は
「 太閤の非道凶暴さは残忍さの極みに達した。惡霊に魅入られたのか、惡魔の所業以上に進み、独裁者の限界を越えた 」
と、記し
最大の理解者・補佐役であった
【 宰相:秀長 】
を失った秀吉と、豊臣政権は迷走を繰り返し
≪ 豊臣家滅亡 ≫
という階段を転がり堕ちていくのでした…
もし、秀長公が生長らえていたなら
関白:秀次・利休の切腹もなく
大陸侵攻も形はかなり変わり
福島正則・加藤清正等と石田三成の対立も表面化せず
家康も出る幕がなかった事でしょう。
最後に、この日記を作成するにあたり
『 「知将・名将」である秀長公 』
について、数々の資料に目を通しましたが
批判的な文章が皆無だったのは一つの驚きでした…
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